『同じ書き出しでどれだけ違うストーリーを作れるか』お試し企画!

05.宮永しひろ様

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。
 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。
 日の光を受けてもなお黒い髪の毛を一つにまとめた女性が、橋の真ん中に立ち、川の流れをぼんやりと眺めていた。
 その川は小さい頃、橋の先に住んでいる年下の友達とよく遊んだ場所だった。
 歩みを止めてその女性を眺めていると、向こうもこちらに気付いたようで、
「…あれ、カズくん?」
「ああ、やっぱり」
 アヤコは、川で一緒に遊んでいた頃より少し大人びた声で、こちらに声をかけてきた。
「なんだ、こっち帰ってきてたんだね。それならそうとこっちにも遊びに来てくれれば良かったのに。橋渡ってすぐなんだから」
「いや、こっちに来てからずっと、やれ虫捕りだのやれ魚釣りだのってあちこち駆けずり回っててな」
「あはは、野生児の本領発揮出来て良いんじゃない?」
「野生児って…今じゃもう、立派に会社勤めのサラリーマンさんだぞ?部下には『いつでも冷静沈着で頼れる先輩』って言われててだな…」
「はいはい、自分で言ってれば世話ないよ~」
 クスクスと口に手を当ててアヤコは笑った。昔はキャハハと大きな口を開けて笑っていたものだが、お互い大人になったということだろう。
 少し日に焼けた肌と八重歯が可愛らしい子だったが、…随分と綺麗になったものだ。
「そういえば、お前も実家出て就職したんじゃなかったか?戻ってきたのか」
「うん、そうなんだ。仕事も、有給あと四日分消化したら退職」
「へぇ」
「結婚して戻ることにしたから」
 笑った顔がそのまま固まり、口元が歪に引きつった。
 視線を下ろした先にはアヤコの手が、その指にはほっそりとした白金の輪がたおやかに光っていた。
「…へぇ、相手は?」
「職場の同期。彼も一緒に退職して、フリーでやってく予定なの」
「今の時代、フリーじゃ大変だろう」
「うん、でも元々のお客さんがそのままお仕事くれるらしいから。この業界、仕事は会社じゃなくて人につくからね」
「そうか」
「うん、そうなんだ」
 会話も途切れ、なんとなく顔を上げる機会を失い、指輪から川へとそっと視線を落とした。
 小さい頃と変わらずサラサラと流れている水を見ていると、その中に小さい頃の自分が見えた気がした。
 その表情に後悔の色が浮かんで見えたのは、気のせいだろうか。
「カズくん。私ね、結婚なんて一生しない、と思ってたんだけどね。彼が本当に良い人で、私の嫌なところも全部受け止めてくれてね」
「…」
「本当に、幸せなんだ」
「…ああ」
 川の中のアヤコは、少し照れたように微笑んでいた。そこには小さい頃の自分も、今の自分も、付け入る余地の全くないことは明白だった。
 握った左手にザラリとした感触があった。夏の日差しを受けても最早光ることもなくなった、鈍い色の金属の輪がそこには嵌っていた。
「アヤコ」
「ん?」
 本当はな、俺、お前のことがずっと好きだったんだ。
 小さい頃からずっと、その日に焼けたふくらはぎも、白い八重歯も、黒くてたっぷりとした髪の毛も、全て大好きだったんだ。
 俺の左手にはまってるのと揃いの輪をつけてる女には、とうに愛想がつきていたんだ。
 なんで結婚しようと思ったのかも忘れた。
 子供を作った時も、考えていたのはずっとお前のことだったんだ。
 お前に似た雰囲気を持ってる部下を抱いたのだって、お前のことが忘れられなかったからなんだ。
 お前も本当は、俺のことが好きだったんだろう?わかってるんだ。
 でも言い出す前に俺がここを離れて働き始めたから、だから諦めたんだろう?
 わかってる、わかっているんだ。わかってる。
 …都合の良い妄想だって、わかっている。
「もっともっと、幸せにしてもらえよ」
「…うん、ありがとう、カズくん」
 全ての妄言を飲み込んでなんとか言った俺に、アヤコはニコッと笑いながら言った。
 やっぱり八重歯も笑い顔も小さい頃のそのままで、少し苦笑した。
 そろそろ旦那が到着して宴会が始まるとのことで、アヤコはこちらに手を振りながら橋を渡って帰って行った。
 アヤコが橋を渡りきるのを見送ってから、俺も家へと帰るべく、橋に背を向けて歩き始める。
 サンダルの中に入った砂が、やけに鬱陶しく感じられた。

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