『同じ書き出しでどれだけ違うストーリーを作れるか』お試し企画!

120.鹿の子様

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。
 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。

 ――詩織だった。

「一緒に出掛けるって、約束してたよね」
 彼女はペパーミントグリーンのワンピースを着て、塀のそばにできた木陰に身をひそめるように立っていた。
 この暑い中、いきなりなんなんだ。それに、いつからここで待っていたんだ。
 彼女の姿に動揺し、めまぐるしく思考が錯綜する中、それでもこの奇跡のようにできた木陰にいてくれたことに安堵した。
 だが、今日一緒に出掛ける約束は、昨夜の喧嘩で取りやめになったはずだ。少なくても、ぼくはそう思っていた。居酒屋に詩織をひとり残し、出ていったのはぼくだ。しばらく会うのをやめようと言ったのも――ぼくだ。
 しかし一晩経ってみると、あそこまで怒る必要があったのか、店に詩織を置いてきぼりにするほどのことだったのか、と後悔しないわけでもなかった。
 そして、ああした行動しかできない自分の心の狭さに嫌気がさす反面、どうして詩織はぼくの気持ちをわかってくれないのかと、怨みもした。


「そういえば、バイトで一緒の石田君からね、映画に誘われたの。びっくりしたなぁ。もちろん断ったけどね」
 昨晩、お互いのバイトが終わる時間を待ち向かった居酒屋で、詩織は心底意外とばかりにそう言った。詩織は驚いてはいたものの、どこか暢気で楽天的に見えた。それに対しぼくは、遂に奴が動き出したのかと、じりじりとした思いに駆られた。
 ぼくは、石田が詩織を狙っているのを知っていた。ぼくと奴は同じ理工学部で、奴はことあるごとに「詩織ちゃんってかわいいよな」と言ってきていたからだ。奴は、詩織のバイト先の学習塾で講師をしていた。正確に言えば、詩織目当てに奴があとから塾のバイトに入ったのだ。
 詩織はもちろん、そんなことは知らない。
「卓也と同じ学部の子がバイトに入ったよ」なんて、どこか嬉しそうですらあった。ぼくは、そんな詩織に石田のことは伏せたまま「バイト先を変えたら」とか、「同じ塾の違う校舎に移ったらいいんじゃないか」など、もちかけた。
 詩織は戸惑った表情を浮かべつつ、
「うーん。でもね、慕ってくれる子たちがいるから、そうもいかないなぁ」
 と、考え考え答えた。
 詩織は、生徒から人気があるのだ。
 それは詩織からも、そしてしゃくなことに石田からも聞いていた。「詩織先生がいるから勉強を頑張る」と言ってくる子たちもいるそうで、それが詩織のモチベーションにもなっていた。
 自分が好きな女の子が、慕われ好かれるのは誇らしい。
 しかしそんな優しい気持ちでいられるのは、相手が子どもか老人の場合のみだ。野郎からの好意は不要なのだ。
 ぼくは、そこを詩織にわかってほしいのだが、どうも上手くいかない。だったら直接そう言えよ、と、つっこまれそうだか、詩織はぼくの彼女なのだ。だから、こういったことは口に出さなくても察して欲しいというか、ふつう察するものだろう。
 そんな詩織への不満が、昨晩石田に映画に誘われた話を聞いた途端、爆発してしまった。


 木陰にたたずむ目の前の詩織は、このままこの暑さの中に消えてしまいそうなくらい、はかなげだった。
 ぼくはいまさらながら、こんな女の子をひとり置き去りにしてしまったのだ、と気が付いた。
「……そうだな。今日、約束、していたよな」
 ぼくは詩織のそばまで行くと、彼女の手をとった。詩織の手は冷たく、室内にいたぼくの手のほうが汗ばんでいた。
 詩織がぎゅっとぼくの手を握る。
 その強さに、彼女の悲しみを感じた。そしてその悲しみは、ぼくの心に届き痛みとなった。
 詩織は悪くない。
 プライドとか、願望とか、勝手な思いとか、そんなもの全部をつぎ込み、いきなり彼女にぶつけたぼくが悪い。伝えなくちゃいけないのは、そんな怒りじゃない。そんなぶち切れた感情じゃない。
 ぼくを見つめる詩織の瞳には、涙が一杯溜まっていた。
「今度、私を置いていったら」
 詩織の口がゆっくりと動く。
「……え、なんだよ」
 もしや反撃か、と、しょうこりもなく身構える。
「卓也のおでこに、絶対に消えないマジックで、『の』の字を書いてやるんだから」
 ――「の」の字。
 想像してぶっと吹きだしそうになるのを、ぐっと堪える。
「わかった。もうあんなことはしない」
 そして、こんなふうに詩織をひとり立たせるような真似もしたくない。

 彼女のとなりにいるのは、自分でありたい。
 それが一番の願いのはずなのに、ときにぼくは彼女に対し恐ろしいほど残酷になってしまう。

「とりあえず、アイスでも食いにいくか」
 詩織と手を繋いだまま歩きだす。
「私、トリプルがいい」
 詩織のリクエストに頷きつつ、ポケットの小銭入れにそんなに金があったかなと考え、嫌な汗が出た。

(了)

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