『同じ書き出しでどれだけ違うストーリーを作れるか』お試し企画!

122.霜村 栄様

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。
 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。
「久しぶりだな」
 通りを包む静寂の中、痩せぎすの男はそう言った。夜でも暑い気候にあっても蛇のような細面は涼しげだった。昔馴染みの顔だった。すらりとした長身にはスーツがよく似合っていたが、どこかしら乱暴に着こなされているのも相変わらずだった。
 彼は、私の住処になっているビルの事務所を一瞥したのち、「まだこの辺で暮らしてるんだな」 と口を開いた。
「街はすっかり変わったが、お前はずっとそのままか。何年ぶりだ?」
「覚えてないな」 と、私は答えた。「それに、あんたも同じことだろう」
 ハッ、と彼は喉を鳴らした。
「どうせ脳味噌の足りない連中を相手にしなきゃならない。だったら、こっちの方が性に合ってる。俺には真っ当な仕事なんて向いてない。馬鹿どものご機嫌取りはうんざりなんだ。――そう思って選んだ道だが、まあ、確かにお前の言う通りだな」
「だが、それもいつまで続くか分からん」
 男は口元を広げて薄く笑った。胸ポケットから煙草を取り出し、唇に咥えてマッチを擦った。両脇に並ぶ建物からも明かりの漏れないここにあっては仄かな光も十分な存在感を放っているものだった。
「まったく今更な話だな。俺の稼業を潰したいなら、機会はいくらでもあったはずだ」
「居所が分からなかった」
「だったらここで通報してみろ。奴さん喜んで耳貸すだろうぜ。もっとも、その気があればのことだけどな」
 私は返事をしなかった。どうするつもりもないというのは彼の見抜いた通りだった。しかし、そうした言葉を紡いだ真意はもっと別の場所にあった。この点については的外れもいいところだった。
 溜め込んだ煙を深々と吐き出したところで、男は 「そういや」 と切り出してきた。
「あの女はどうなった?」
「死んだよ」 努めて淡々と私は告げた。「お前が雲隠れしてる間にだ」
 車が道路を駆け抜けていった。時代遅れのクーペだった。およそ不自然な風に煽られ、彼の黒髪がさざめいた。無機質めいたその表情には変化がなかった。ただ、鳶色の目が僅かに淀んでいた。けれども、それも一瞬だけだ。
「そりゃ結構なことだ。もう小言を聞いてやる必要もなくなったってわけだ」
「ちょうど一ヶ月ほど遅かったな」
 抑えた声で私はそう付け加えた。
 今度こそ男は呆然とした。丸々と見開かれていたのは瞳だった。緊張の弛んだ唇からは煙草がこぼれ落ちそうだった。そのことに気付くと指に挟んで救出したが、視線は地面に投げ出されていた。我々は二人とも黙り込んだ。
 無音の時間が過ぎていった。くゆんだ紫煙が先細って闇に溶け込み、最終的には消えていった。
 一呼吸置いたのち、彼は普段の調子を取り戻した。アスファルトに吸殻を捨て、燻ぶる灰を踏み潰しながら、「悪党には悪党の報いがある、か」 と呟いた。
「次の一件はでかい取引になりそうでな。有力なお客さんがいくつも噛んできている。見返りとしては十分なんだが、その分、危ない橋を渡らなきゃならない。俺みたいな個人商店を相手に、迷惑極まりない話だ」
 大仰そうに肩を竦めて男はククッと声を漏らした。
「見え透いた罠だ。露骨すぎるくらいにな。馬鹿どものご機嫌取りも楽じゃない」
「しがらみのない世界なんて幻想だ」 私は言った。「そんなものはどこにだってない。現に、あんたはここにいる」
 男は二本目の煙草へ手を伸ばしていった。マッチの箱を掌に握ってその中身をあらためたとき、彼は小さく鼻を鳴らした。筋張った頬には苦々しい笑みが浮かんでいた。
「近くまで来たのはたまたまだったが、自然と足が向かってた」
 用済みになった空き箱を分解させて片付けながら、彼は吐露した。
「お前が正しかったよ。いつだってそうだな」
 私は目線を明後日に逸らした。耳を澄ませば聞こえてくるのは雑踏の音だ。少しでも表へ出さえすればネオンの光に満ちた社会が存在しているはずだった。しかしそれも今となっては遥かに隔てられた場所だった。
 だが、そうであっても、お互いがお互いに繋がっているのは確かだった。
「とはいえ、ただで転ぶつもりはない。何かしらのことは思い知らせてやるつもりだ」
 革靴がじゃりと砂を噛んだ。片側に重心を移した男はちらりと背後を一瞥した。それから私の方へ面を戻し、片手を挙げて言葉を続けた。
「じゃあな、兄弟。元気でやれよ。会えてよかった」
「ああ、またな」
 そうした私の返答に対して、背中を向けかけた彼は止まってちょっと意外そうな顔をした。
 ややあってから、ふっと口の端を崩した。
「心配なんざしなくとも、バァさんの一周忌には帰ってやるよ」
 ニヤリと私は笑ってみせた。
「約束は守れよ、兄貴」
「その程度の良識くらいは残ってるさ」
 男は踵を返して立ち去っていった。私もその場を離れて帰途についた。
 見送りなんて必要なかった。振り返ることさえもしなかった。こんなところで今生の別れにさせてやるつもりはなかった。
 次もこうやってまた会える。それだけを信じていた。

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