『同じ書き出しでどれだけ違うストーリーを作れるか』お試し企画!

123.氷蒼シキ様

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。
 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。

「……そこにいたのか」

 何故か少しの安堵を感じながら声を掛ける。
 見るからに豪奢で頑丈そうな鉄柵が閉じられた裏門の、その門柱の陰翳に隠れるように立つ人物。漂ってくるのは、夜の匂いを孕む空気の底に重く沈殿した、無機的な存在感。
 無意識に呼吸が浅くなるほどの重苦しい気配は全身で感じながらも、まるで意識の表面のみでしかその存在を認識できていないような、奇妙な感覚。確かにそこに居るのに、何故か 『居る』 という表現が酷く似つかわしくない。その人物の周囲だけ、まるで一度置いた色を態と抜き取ったかのように、不自然に彩度を失っているせいかもしれない。
 だが慣れというものは恐ろしく、思考はそれらに違和感の一切を抱く方法を排除していた。
 今し方抜け出して来たばかりの屋敷を背に、その人物へと一歩、また一歩と近付く。背後の屋敷の、幾つかの窓から漏れる光だけが頼りの暗がりの中、すでに互いの表情が見えるまで二人の距離は縮まっていた。
 その人物はこちらとはっきりと目が合うなり、柔らかで人当たりの良い、しかしどこか他人行儀な微笑を浮かべて見せた。
「勝手に部屋を抜け出すと、また父君のお叱りを受けますよ」
 返って来たのは、夜の闇を舐めるような、奇妙な滑らかさを帯びた男の声。そこには、責めると言うよりは楽しんでいるらしい含みがある。
 口調こそ穏やかだが、その声色の芯には、闇に紛れた熱気を一瞬にして払拭するような、不穏で冷々とした響きが存在していた。だがそれは決して明確なものでは無く、ゆらゆらと波打つ水面に映り込む風景のように心許ない。
 すらりとした長身を陰翳の中から生やしたような、現実味の薄い特異な存在感を放つ声の主に、溜息と共に一瞥をくれてやった。
「今更だろう。それに、そういう事は実行する前に言えよ」
「人がいる場所で話し掛けるな、そう仰ったのは貴方だったと記憶していますが」
 すかさず反論を喰らう。
 決して嫌味で言っているのではない事はこれまでの付き合いから理解できたが、正論ばかりを言われるのも気分の良いものではない。
 思わず口籠った。
 陰翳に立つ男は、そんな心の機微を鋭敏に察したのか、小さく含み笑いを漏らす。それらの動作ひとつひとつがいつも気に障る。
 いや、気に障ると言っても苛立ちの類ではなく、劣等感や敗北感に近い感覚だ。
「…………」
 面白くなくなって、門に向かって右脇の壁を背に腰を下ろした。ひやりとした石壁が、一枚の薄布越しに心地良く体温を奪う。
 隣からは、こちらの動きを目で追っている気配が十分に伝わってくる。
 けれど完全にそれを無視しつつ、無為に夜空を見上げた。月は背中側に位置しているため、背の低い家々の屋根と、それらを囲む幾つもの星と、そこに疎らに染みを作っている雲しか見えない。
 そうしていると時折、土の匂いを孕んだ風が駆け抜ける。
 秋を運ぶ夜のそれは存外冷たく、肌にまとわりついていた熱気を軽々と追い払った。だが一旦風が止んでしまえば停滞した空気がすぐに熱気を帯び始め、思い出されるのは、じわ、と汗の滲む暑苦しさ。
 これでは風邪を引きそうだなと、不意に現実味のある内容が思考を掠める。
 だが監視の目を掻い潜って部屋を抜け出した苦労を思い起こせば、すぐに戻る気にはなれない。自主的に戻らなくとも間もなくの巡回で、もはや何度目か誰も覚えていない脱走劇が知れて、小さな騒ぎとなって屋敷中に明かりが点くのだ。
「…………」
 余計な考えを追い出すように、大きく息を吸った。肺に溜まる、ひやりとした心地良い外気。
 それを一気に吐き出せば、見計らったかのように声が降ってきた。
「ようやくですね」
 ぽつり、と陰翳に立つ男が言う。
 瞬時に意味を理解し、同意を示す。
「ああ、俺も来月で十八だ。やっとこの軟禁生活から解放される」
 やっと。
 そう自分で言った割には感慨も実感も薄い。本音を言えば、果たしてそれが喜ばしい事なのかも判断ができないでいる。
 けれど、ずっと忘れずにいた事もひとつだけあった。
「長かったですね」
 下らない事を考えていると、再び隣から声が掛かる。
「そうだな」
 正面を向いたまま応えた。
 こうして過ごした日々は本当に長かった。
 十年近く屋敷の自室に軟禁され続けたのだから、する事も無ければこれと言った楽しみも無い。そんな退屈で閉鎖された生活は、感覚だけで言えば十年などと言うものではない。
「こうして貴方の自由が奪われ続けたのも、全て私の所為なのですね」
 心なしかトーンの下がった声から、相手の自嘲気味な微笑を想像するのは難しくなかった。
「そんな事は言ってないだろう。何度も言うけど、俺はお前のせいだと思った事は無いよ、<影>」
 思わずその言葉を否定したが、<影>は首を横に振った。
「……いえ。貴方が何と言おうと、事実ですから」
 普段は悠々と、傲然と構えているのに、この話題になるとすぐ卑屈になる。責任を感じているのだろうが、そのように思った事は一度も無い。
 再び横目に<影>を見上げると、そこにあるのは想像と違わない困ったような微笑。
「…………」
 こちらに向けられたその笑みから逃げるように視線を外す。
「何度も言うけど、もし見えてなかったら、とか考えるのは無駄だと思うぞ。こうして俺にお前が見えてる事実は変えようが無いんだからさ」
「そう、ですね」
 納得がいかない様子の<影>。言い分は理解できなくも無いが、こちらとて今の言葉に偽りは無い。
「あーもう、俺が気にするなって言ってるんだから余計な事考えるなよ、いいな?」
 まだ何か言いたそうにする<影>を牽制し、無理矢理に話題を打ち切る。すると渋々といった様子ではあるが頷いたのが分かった。

 物心がついて、気付けば隣に<影>がいた。
 今思えば随分あっさりとこの奇妙な存在を受け入れたものだが、そこは子供の柔軟性だったのだろう。友人さえ親に勝手に決められていた窮屈な生活空間では、貴重な話し相手であったのも事実だ。
 だから<影>が見えて会話ができて、迷惑だと感じた事は特に無い。
 ひとつだけ文句があるとするなら、本心を包み込むために取り繕われた他人行儀な笑顔と態度に、だ。なんせ十年以上経った今も昔と変わらないのだから。

 先の会話の内容のせいか、間に降りたのは少し息苦しさを憶える沈黙。じわじわと這うような暑苦しさも相俟って、余計に居心地悪く感じてしまう。
 時間すら忘れそうな、流動しない静謐。
 重く圧し掛かる、濃密な寂寞感。
 何となくそれらに揶揄されているような気になって、反射的に眉が寄る。
 背後の壁に頭を預け、空に向かって溜息をついた。停滞した空気と沈黙から逃れるように、闇色の空を滑る雲を目で追った。
 ほとんど動いていないように見える雲を視界の中央に捉えたまま、そう言えば今まで言う機会が無かったなとふと思った。
 言った所でまた笑われるか軽くあしらわれるか、どちらかだろうと簡単に想像は出来たが、数瞬の躊躇の末、その内容を零してみた。
「……俺さ、ずっとやりたいと思ってた事があるんだ」
 空を見上げたまま、ぽつりと。
「どうしたのですか、突然」
 僅かに驚いたような声が返ってきたので、首を動かして<影>の方を見遣った。
「お前は薄々気付いてたんだろう? 俺が親父も家も嫌ってて、後を継ぎたくないと思ってた事」
「…………」
 口元を引き結んだまま、<影>は目を細めた。肯定の意味だろう。
「周りの目ばかり気にして俺を異常者だと決め付けた挙句、部屋に放り込んでさ。自分でも短絡的だとは思うけど、そんな親父の思惑通りにはなりたくない」
 <影>と会話をしている姿を世間の目に晒したくなかったのは、家督継承の際に不都合だからだ。いわゆる、世間体。
 きっと、それ以上でもそれ以下でも無い。
「随分と根に持っておられるのですね。体裁の為とは言え、父君も苦渋の決断だったと思いますが」
 滑らかな声が抑揚も無く言った。
「苦渋の決断、ね……お前は心にも無いことを平気で言うから怖いよ」
 にやり、と口角を上げながらその顔を仰ぎ見る。
「恐縮です」
 すると恐縮などしていない証拠に、整った顔が作り出す笑みが満足げなものに変わった。
 嫌な奴だ。本当に。
「それに折角自由になれるんなら、やりたい事やらなきゃ意味ないだろ?」
 言いながら立ち上がる。目線が近くなり、表情を詳細に読み取れるようになってようやく気付いたが、<影>はそれが何なのか、まだ見当が付いていないらしかった。
 普段は嫌味なくせして、肝心な事には卑屈になるかとことん鈍いか、どちらかなのだ。
「お訊ねしますが、その 『やりたい事』 とは?」
 続く予想通りの問い掛けに、出来る限り意地悪い笑いをくれてやる。
「見て回るんだよ、世界中を」
 その返答に<影>は意外そうな顔をした。
 ここまで言って分からないのかと思うと、流石に呆れると同時に切なさに近いものを感じる。
「何だ、覚えてないのか? 小さい頃にお前と約束しただろう?」
「……!」
 <影>の黒目が小さくなった。ように見えた。
 ここに来てようやく合致したらしい。俯き、額に手を当てて、軽く頭を左右に振っている。
「貴方という人は、よくもそんな昔の話を……」
「昔の話って……あのな」
 顔を上げると同時に、はあ、と態とらしい大きな溜息を吐かれた。
「子供相手に私が本気だったと、今まで思っていたのですね?」
 今にも鼻でも鳴らしそうに、<影>。
「え、冗談だったのかよ……!?」
「決して冗談ではないですが……そもそも貴方が覚えていると思っておりませんでしたので」
 ぐうの音も出ない、とはこういう事を言うのだろう。こちらが反論できない事を見抜いたのか、再びあの含み笑いが始まった。
 同時に、屋敷に明かりが灯る。抜け出した事がばれたようだ。
 こうなると発見されるまでは時間の問題。少し冷えてきたし、潮時かもしれない。
「ともかく、だ。俺はずっと決めてたんだ。覚悟はしとけよ」
 大人しく屋敷に戻りつつ、背後に向かってそう吐き捨てた。こちらとしては念を押したつもりだったが、案の定またもや大きな溜息の餌食となった。
 悔しくなり、文句のひとつでも言ってやろうと足は止めずに振り返ると、陰翳の中に溶けるようにして<影>の姿が薄くなり始めていた。
 ち、と舌打ちしかけたが、それより少し早く消え入りそうな声が耳に届いた。
「……!」
 その言葉に立ち止まって躯ごと振り返ると、背景を透かす<影>の穏やかな表情。それは今まで見てきたどの表情とも一致しない。
 返事をしようとしたが、反応が一拍遅れてしまったため、すでに目の前には見慣れた門が佇んでいるだけだった。姿は見えずとも呼び掛けは届くのだが、必要は無いので喉元に引っ掛かっていた言葉を嚥下した。
 もう振り返る事はせず、屋敷への低い階段を上がる。心なしか、普段より足取りは軽い。
 理由はすぐに分かったが、恐らくそれを<影>が知ることは永遠に無いだろう。

 初めて、春の訪れが楽しみだと感じた。

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