『同じ書き出しでどれだけ違うストーリーを作れるか』お試し企画!

124.原子番号三番様

 桐嶋修一ver.

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。
 俺は、茫然とその場に突っ立った。

 あれはいつのことだっただろうか。まだ小学の高学年のことだったから、五、六年前。いろいろあって学校に行きにくくなったのが五年の冬からだから、そう、その頃のことだ。家の近くのマンションに、ばあさんが独りで住んでいた。
 あまり話さない人だった。重そうな荷物を持っていたから声をかけたら嬉しそうに笑った。そんな出会いだった気がする。思えば随分と純粋だったものだ。今ならそんなことは絶対にできない。

 そうだ。彼女がいなくなったのもちょうどこんな日だった。
 夏休みが終わるころ。だから、六年のときか。それまでもよく行ってはいたのだが、彼女の部屋に、夏休みに入ってからはほとんど毎日通っていた。
 涼しく少し暗い彼女の部屋は居心地がよかった。机の上にいつもおかれていたピッチャー――ウォータージャグ、という名を後で知ったが、なんとなく似合わない話だと思った――から接がれた麦茶は少し濃く、とても冷たかった。
 その日、涼しくなりかけていた日々がまたぶり返したように暑くなった日だった。いつものように彼女の部屋を訪れた自分はそこで、床に倒れた彼女を見つけた。
 当時中学生だった姉は部活に行っており、共働きの両親も家にはいなかった。どうしていいかわからなくなった自分は、そのまま隣の部屋の扉をたたいた。
 それから後のことはよく覚えていない。ただ次の日、彼女の部屋の鍵のかかった扉にもたれてぼんやりとしていたのは頭に残っている。しばらくそうしていると、隣の部屋から出てきた昨日の人が教えてくれた。あのおばあさんは病院に運ばれて、そのまま亡くなってしまったのよ――ああ、それではその人は女性だったのだ。
 前日までの暑さは消え、秋めいた涼しい風が吹いていた。

 なんのために彼女は帰ってきたのだろう。俺は、自分のことに思いをめぐらした。
 もうすぐ夏休みが終わる。そうなれば、いやでも進路を決めなくてはならない。もともと将来の目標などあるわけでもない。高校だって、近いというだけで入ったところだ。
 どうなるかわからない自分への、漠然と、本当に漠然とした、不安。
 それを知ったというのだろうか。僅かなことによく気が付く人だった。多くを語らずとも、彼女はすべてを感じ取っている気がしていた。

 彼女がいなくなった時、世界に自分を分かってくれる人間が一人もいなくなったように感じた。
 無論、そんなことはなく、高校では小学校以来会っていなかった幼馴染と再会した。少しながら友人と呼べる人間もできた。
 楽しい。そう思えるようになった。

『ぼくは大丈夫だよ』
 記憶の中の俺が言う。そうだ、もう、大丈夫だ。
『だから心配しないで、おばあちゃん』
 心配しないで、さっさと天国とやらに戻ればいい。
 彼女は一つ微笑むと、そのままかき消すように見えなくなった。

 頭を振る。頬を伝う汗を落とすように。浮かんだ思いを打ち消すように。
 ……暑さが見せた、幻覚だ。
 空を仰ぐ。風がゆっくりとなぜていく。

 ああ。
 夏が終わる。

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