『同じ書き出しでどれだけ違うストーリーを作れるか』お試し企画!

125.椎名様

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。
 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。

 少し思惟して、それが『彼』だと気付く。

「なーにやってんだよ! 駿! 早く来いよ!」

 この蒸し暑い残暑の中、全く暑さを感じさせず元気に手を振り声を上げる『彼』に、苦笑しながら早足で駆け寄った。

「ったくー、星観に行く約束だったろー? 全然来ねぇから忘れられたのかと思って冷や冷やしたぜ」
「ははっ、上手いこと冷えられて良かったじゃん?」
「そーいう意味じゃねぇっつの!」

 ドンッと軽くどつかれ、よろめいた。
 こっちは虫も鳴かない暑さの中、山道を歩いてきてふらふらなのだ。少しは気遣ってほしいものだ。『彼』と違って丈夫には出来ていなかったのだから。

「おーし、山頂の方向かうぜー」

 夜目の利かない俺の為か、『彼』が有無を言わさず手を取る。夜になっても暑さの抜けない空気の中、体温が程好く混じって心地好く感じた。いずれ、温くなり手汗で滑って気持ち悪くなるのだろうが、今はただそれを享受しようと思った。

「こうやって一緒に歩くのも久々だよなー。三年ぶり?」
「ああ、うん」
「やーっと約束果たせんな!」

 にこにこと心底楽しげに『彼』は笑う。その笑顔に、自然と俺も笑みを引き出された。
『彼』が喜んでいる。嬉しい。最後に見た『彼』の表情は、酷いものだったから。

 申し訳程度に舗装された山道の、少し逸れた所に青い花が咲いていた。鳥兜だ。ああ、もうそんな季節か。
 鳥兜は一本だけではなく、俺達の向かう先を案内するかのようにぽつぽつと咲いていた。緑と黒の中に混じる青は、鮮やかで明かりを灯さずとも綺麗だと感じられた。夜目の利かない目ではっきりと見られない事が残念だった。

 軽く談笑しながら山道を進む。
 もう受験だね。ああ、そうか、早いな。そっちで友達は出来たのか。なんだよその親父みたいな質問。だってさ、普段の駿がわかんないから、俺だって心配にもなるんだって。相変わらずだな、そういうとこ。ちっとも変わらない。変わらないよ、ずーっと。ずっと駿のことを考えてる。

 立ち止まって、『彼』が俺を静かに見つめた。

「ずっと、駿のこと、考えてきたよ。今も、昔も」
「なあ、駿。一緒に、いたいんだ。こんな風に離れるのは、つらい」
「この約束を果たしてしまったら、また、駿はいっちまうんだろう?」
「駿、一緒にいたい。ずっと、一緒にいたいよ」

『彼』の瞳が寂しげに揺れる。ほんの少しだけ訪れた無音が、痛かった。

「……ごめん。困らせたな。星、観ようか」

 手を繋ぎ直して、歩みを再開させる。
 手が、冷たい。人は、緊張すると手が冷たくなるらしい。

 ぷちり。足元で何かが潰れる音がした。芋虫を踏み潰すような、音。
 目を凝らして覗いた先、黒い何かからぐじゅっと液体が溢れて靴を汚していた。
 それは一つだけではなく、細い何かで繋がれて地面の黒の密度を増やしていた。植物のようだ。

「ああ、桑の実だよ」

 好奇心に負けしゃがみ込んだ俺に、『彼』が困った子供を見るような目で笑ってそれを手に取る。

 蜘蛛の目のような黒い玉の塊は、暗闇の中ぷっくりと膨れて何だかグロテスクに見えた。

 ぶちゅり。『彼』の指の圧に負けて実が弾ける。飛び出た液体もまた黒い。

「これ、食べれるんだぜ? マルベリーっつうの。普通にジャムとかにもなってるし」

 ねっとりと、『彼』の舌が指に付着した黒い液体を嘗め取った。血でも嘗めているみたいだ。『彼』はいつからヴァンパイアになったのだろう。

「駿も食べてみる?」

 もう一粒もぎ取って『彼』が差し出してくる。

 ぱくり。口の中で凝縮した玉を潰し転がしたそれは、腐った果実のように甘ったるかった。

「さっ、もうすぐだぜ」

 立ち上がって山上を目指す。気持ちが逸る。その場所は、俺にとっても『彼』にとっても、とても思い入れのある場所だったから。

 いつのまにか口数も減っていた。二人、無言でただただ真っ直ぐに足を進める。
 ああ、『あの日』の再現のようだ。あの時は、立ち場が真逆だったけれど。僕がひたすら、夜目の利かない彼を引いて歩いたのだ。『あの場』へ向かって。

「……着いた」

 少し開けた場所に出る。盛り上がった土。青草の薫り。棄てられた紙コップと大きなシャベル。『あの時』から何も変わっていないようだ。

 否、一つだけ目に付くものが。
 ここまで鮮やかな青はなかった。鮮やかな、鳥兜。

「……綺麗だな」

『彼』が吐息を溢すように呟いて空を見上げる。続いて、俺も見上げた。
 闇色のベールの中、斑に輝く星。『あの日』と同じ、『彼は見られなかった』星月夜。

 コツリと、足が何かを蹴った。いつの間にか『彼』に誘導され、『彼の上』にまで来ていたらしい。

 ……ああ、なんてことだ。野犬か何かに掘り返されてしまったのか。
 少しだけ、現れていた『手』に舌を打ちたくなった。

「なんだよ駿。勿体ねぇじゃん。
 せっかくここまで来たんだからさ、『今度こそ』ちゃんと星、観ようぜ」

『彼』がゆったりと笑んで俺の手首を掴む。温度のない、手。

「こんなに綺麗だったんだな。『あの時』は、ジュース飲んでそのままだったから。
 こんな、綺麗な場所で、俺は殺されたんだな。

 お前に」

 静かに鳥兜が揺れる。ぐちゅり。先程飲み込んだ桑の実の後味が、喉に貼り付いている気がした。

 痛い程に握られた手首を感じながら、俺も笑って再び空を見上げる。

 三年前の夏休み明け。俺はこの場で『彼』――風間啓祐を殺した。

「なんで殺したんだ? ご丁寧にジュースに睡眠薬混ぜて」
「当てていいか? これってさ、初恋の代償?」
「あんなちっせぇ穴に押し込んでさ。窮屈ったらねぇよ」
「痛かったんだぜ? 完全に意識は消えてなくてさ。
 お前の必死な顔、俺、ちゃんと見てたんだ」
「最期まで、見てたよ。お前を。
 お前さ、泣いてたよな。ぼろぼろ、ぼろぼろ、笑いながら」
「すげぇ嬉しそうに笑ってんの。人の首絞めながら。涙流して」
「俺、見てたよ。全部。駿を、ずーっと、見てた」

「……なあ、駿?」

 冷たい唇と共に、腐った桑の実が舌で押し込められる。少し土の味がした。
 ぐちゅりと、音がする。何かが潰れる音だ。頬に啓祐の手が添えられた。指の感触はない。弾力のないゴムのような。そして、硬い小枝のような。そんな『手だったもの』が頬から首、鎖骨へとガサガサと滑っていく。
 ぐずぐずと、塞がった喉から空気が洩れ、俺の耳朶を擽る。笑っているらしい。彼は、笑っている。嬉しそうに、愉しそうに。


「今度こそ、『一緒』だな?」


 鳥兜が揺れる。ぶちゅりと、咥内で桑の実が弾けた。



 それは、星が綺麗な夜だった。

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