『同じ書き出しでどれだけ違うストーリーを作れるか』お試し企画!

16.くらくら様

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。
 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。
熱気に揺れるその人影は私に背を向け凛と佇んでいる。私が太陽に翻弄されているそのすぐ先で、まるでこの茹だるような現世に存在しないかのように。一度下した手はピクリとも動かなかった。その女人の後ろ姿に、体の自由が奪われてしまったようだった。
 ふと、何かに気づいたように女人はゆっくりと振り返る。少し湿った後れ毛が、着物から覗くうなじに張り付いている。それが何とも艶めかしく、私の喉がごくりとなった。

 そして、振り向いたその女人は。

「おまえさん、どうされたんです?」

 気の抜けるような声色で話しかけるのは見慣れた女の姿。朝褥を出るときから夜灯りを消すその時まで共に過ごす女房の姿であった。言っておくが私の女房はとりわけ美人というわけではない。平々凡々。唯一誇れるのは毎朝作る味噌汁の美味さだけであろうか。

「いや、なんでもねえ」

 巡る思考にやっとこさ追いついた体が歩を進めた。そして見飽きた女の顔を見つめて口角をあげるのだ。

「ずいぶんご機嫌だねぇ。あたしゃあこの暑さに滅入っているというのに」
「絶世の美女をみつけたのさ」
「あたし以上に美人なんてどこにいるんでしょうねぇ」

 冗談交じりにかわす言葉に目じりを緩めて強気に返した。

「いるさ。最高の見返り美人がな」

ザッザッ

 二人分の足音が広い道に響き渡る。江戸の暑さはまだまだ続く。私はあの女に再び出会う事を期待しながら、平凡な女房と家路を急ぐのだ。

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