『同じ書き出しでどれだけ違うストーリーを作れるか』お試し企画!

21.芳野様

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。
「御機嫌よう」
 その人は微笑みながら私を見た。紺色のセーラー服を着た美しい少女だ。彼女は去年のクラスメイトで、学級委員をやっていた。頭もよかったのだ。ついでに言うと実家はお金持ちだった。
 今時の女子高生ときたら下着から何センチ下がっているか数えた方が早いくらいスカートを短くしているが、彼女はいつも膝丈だった。薄く肉のついた細いふくらはぎに乗っているまろい膝小僧は、スカートが風に揺れた時か、ジャージを着ているときくらいしか見えないので、男子生徒の間では体育の時間は貴重なものだったらしいと友人から聞いたことがある。残念ながら今日の彼女は制服なので、噂の膝小僧を見ることはできなかった。
 のろのろと足を進めながらごきげんようと返すと、彼女は嬉しそうに笑った。笑ったというか、彼女は基本的に微笑んでいるので、別に笑ったわけではないかもしれない。いつも通り穏やかに口元を上げているだけで何も考えていないのかも。
 電柱の傍に立っていた彼女は通り過ぎる私をただ見送った。私も特別話すことはないのでそのまま歩いた。彼女から幾分か離れた頃、また「御機嫌よう」と聞こえた。美人で頭も良く家柄も立派な彼女は、その声までも美しいのだった。

 住宅街を抜けると踏切がある。車一台分程度の細い道だが、交通量は多くないので開かずの踏切というわけではなかった。私が生まれるずうっと前からあるので、色々な所が随分とくたびれている。明るい昼間だから何とも思わないが、夕暮れの頃にカンカンと鳴る様子は少し不気味である。
「おっ、久し振りに見る顔だ」
 気安く話しかけてきたのは近所のおじさんだった。私が小学生の頃から可愛がってもらっている。おじさんは駄菓子屋さんなので、よく遊びに行っては10円ゼリーや麩菓子をもらっていた。
「今日は暑いなぁ」
「そうですね」
 踏切は静かである。そもそもほとんど電車が通ることはないのでおじさんと話している間に踏切が鳴る可能性はものすごく低かったが、おじさんが言ったように今日は暑いので、私は早く先へ進みたかった。部屋着で炎天下の立ち話はきつい。
「すみません、先を急ぐので」
「おぉ、これはすまないね。じゃあまた遊びにおいでよ」
 ばいばいと手を振るおじさんに手を振りかえして、私は踏切を渡った。途中大粒の石を踏んで転びそうになるのを耐えて、踏切を渡り終えた頃、カンカンとくたびれた音が鳴った。

 踏切を過ぎてしばらく歩くと、民家の前で掃除をしている人を見つけた。「あら」と箒を刷く手を止めたのは祖母だった。
「こんにちはおばあちゃん」
「こんにちは。おでかけ?」
「うん。ちょっとコンビニに。アイス買おうかなって」
「今日は暑いからねぇ。でもあんまり食べ過ぎちゃ駄目だよ。お腹ひえちゃうからね」
 そうだ、お小遣いあげようね、などと言い始めた祖母にお小遣いはいらないとやんわり窘めた私は、おばあちゃんは何してるの? と尋ねた。
「お掃除してるの。昨日は風が強かったでしょう? だからねぇ、ゴミが飛んできちゃって」
「ふぅん」
「でもだいぶ片付いたわ。あともうひと踏ん張りだわね」
「そうなんだ。頑張ってね。きっと家の人も喜ぶよ」
 今度はゆっくりしていきなさいと見送る祖母に返事を返して、私は家の前を通り過ぎた。横目で見た表札に名前はなかった。


 コンビニで適当に見繕ったアイスのひとつを食べながら同じ道を辿って帰る。家の前に祖母はいなかった。当たり前だ。祖母が居たのは十年前で、この家は今も売りに出されている。
 閑散とした踏切におじさんはいなかった。それもそうだ。おじさんは私が中学生の時に電車に引かれてしまった。駄菓子屋さんはとっくの昔になくなっている。今はお洒落な雑貨屋さんが店を構えている。
 家の近くの電柱に彼女の姿はなかった。彼女は去年の今頃に、この場所でわき見運転の車に撥ねられた。あんまりひどい事故だったので痛む間もなかったのは幸いなんじゃないかと私は思っている。彼女とは特別親しいわけではなかったが、帰り道が同じ方向なのでたまに一緒に帰っていた。その程度の仲だと私は思っているけれど、ほとんど友人がいなかったらしい彼女にとっては、もしかしたら私は一番の友達だったのかもしれない。
 そう考えると、なんだか急に彼女がいとしく思えてきて、家に帰ってから食べようと思っていた分のアイスを電柱の傍に置いてあげた。彼女の好みは知らないけども、とにかく今日は暑いから。


(暮れの日)

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