『同じ書き出しでどれだけ違うストーリーを作れるか』お試し企画!

85.卯上様

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。
 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。

 気付いたと同時に回れ右をする。ダメなんだ。他人とかもう、無理。もしすれ違いざまに「こんにちは」なんて言われようものならどうしていいかわからなくなってしまう。いや、こちらも「こんにちは」と返せばいいだけなんだろうけれど、たったそれだけなんだろうけれど、噛んだり、声が裏返ってしまった日にはそれこそどうしていいかわからなくなってしまう。そうなっても気づかれないよう小さな声で返せば……と一瞬思ったりもしたけれど、それじゃ相手に聞こえなくて「あの家の子は挨拶も返さない」とか言われてしまうかも知れない。そうなったらもう本当にどうすればいいのか。一度付いてしまった良くないイメージを払拭するには生半可な努力じゃ駄目だろうし、そもそも挨拶どころか居るのを見たくらいでこんなことになっている私にそんな努力が出来るわけがないし。
 そんなことを思いながら来た道を戻っていると、少し先に誰かが立っているのに気付いた。
 詰んだ。もう、帰ることも出来やしない。家はすぐそこなのに。爆発しないかなあ、あの人爆発して吹っ飛んで行ったりしないかなあ。爆発しないよなあ。爆発したらしたで、目撃者としてさらに大変な状況に陥ることになってしまうだろうし。苦行に過ぎる。
 振り返ればさっきの人がこちらに近づいて来るのが見える。挟まれた。私の人生が今まさに終わったようです。前門の虎後門の狼状態で生き延びられるほど強くもないし。精神的にも、肉体的にも。ああもう、家なんて出るんじゃなかった。暑いし。全然涼しくないし。太陽は暴力的だし。
 諦めた私はその場で立ち尽くす。
 これから涼しくなっていくとは言え、まだ暑苦しさの残る時期。太陽もまだ炎天下と呼べるくらいにその強さを誇示している。強い日差しと熱。そして慣れない外出からくる緊張。やがて私の視界はぐらりと歪み、白くフェードアウトして――。

 ――意識が戻ったとき、私はまだ立っていた。ただの立ち眩みみたいなものだったのかも知れない。けれど妙な違和感がそこにはあって、それは一体どこからくるのだろうかと思ったところで私の耳が足音を拾った。
 見ると、少し離れた路上で誰かが回れ右をしようとするところだった。
「あれは……」
 見覚えのある姿が歩いて行く。なんてみすぼらしい歩き方なんだろう。背中を丸めて、歩幅も小さく、いかにも卑屈そうな歩き方だ。
 私はその背中を追うことにする。背筋をピンと伸ばして、胸を張り、しっかりと歩幅にも気をつけて歩き出す。人の振り見て何とやらと言うけれど、これもきっと同じようなことなんだろう。
 前を行く卑屈な姿はもうすぐ立ち尽くし、そのまま消えるはずだ。私はその場所を通り過ぎ、その先に居る人に声を掛けようと思う。
「こんにちは」と。
 そうして私は、私を追い越すんだ。

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