『同じ書き出しでどれだけ違うストーリーを作れるか』お試し企画!

88.伊早鮮枯様

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。
 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。

――ありゃま、俺だ。

 鏡のようにぼんやりと、ぽかんとした顔で立つのは今朝も顔を洗う際に見た顔と同じだった。
 甥や知り合いの少女たちに揃って趣味が悪いと言われる草臥れたシャツに、貰い物の古ジャージ、ゴム製のピンク色した便所サンダル。妙な癖のついたざんばらな髪に剃り忘れた無精髭。細めた目つきや滅多に外すことのないサングラスのカタチまで、何から何まで同じだった。
 つぅとこめかみを伝う汗を右手で拭う。
 目の前の男は同じように右手で汗を拭った。
 シャツに描かれた可愛いとは言い難いパンダがニヒルに笑っている。
 ただ、目の前の男の足元には“影”が無かった。

――陽炎か、それともドッペルゲンガーかな。

 ふと男は面白くなって、目の前の同じ形をした男にやあと左手を挙げてみた。
 やっぱりその男は男と同じように左手を挙げて、やあ、と言った。

「今日はまた特に暑いねぇ」
「今日はまた特に暑いねぇ」

 違和感はあるが、おそらく同じ声。男は自分の声は他人にこう聞こえているんだなぁとのんびり考え

ながら、ぽりぽりと首を掻いた。
 同じように目の前の男は首を掻く。
 ばんざーいと両手を上げると目の前の男も同じように上げる。
 ラジオ体操を踊ってみると目の前の男も同じように踊る。
 男は楽しくなってきて、くくと喉の奥で笑うと、目の前の男も同じようにくく、と笑った。

「いやぁ、面白いね、お前さん」
「いやぁ、面白いね、お前さん」

 まるで山彦だ。
 男はけらけら笑いながらまた垂れてきた汗を拭う。もちろん目の前の男も同じように拭った。

「さて、と」
「さて、と」

 検討はついた。
 男はポケットを漁って目当てのモノを探す。それはすぐに見つかった。
 くしゃくしゃの、なんのメーカー名も絵も描かれていない紙箱。その中から湿気りかけた煙草を取り出し、一緒に入っていたマッチで火をつける。少しくすぶったかと思うとじわりと赤い熱を光らせ、灰色の煙が男の口からもわりと出た。
 目の前の男の様子を伺うと、同じような行動をしつつもどこか焦ったように顔をしかめている。

「さ、戻ろうか」
「……さ、戻ろうか」

 男は嫌そうな顔をする自分と同じ顔に煙をふぅと吹きかける。対する男はもう同じ行動を取らなかった。けほけほと煙を厭う。
 ぱん、ぱん、ぱん。三度、手を打つ。
 くわえ煙草から灰がぽろりと落ちた。

「おかえり」
「オカエリ!」

 それを合図に、どこかでちりんと風鈴の音が聞こえたような気がした。
 にんまり、同じ姿をしていた男は子どものように笑うととろりと溶けて男の短い影と同化してしまうのだった。

「帰ってきたときはオカエリじゃなくてタダイマ、な」

 苦笑しながら呟くが、誰も居ない道の真ん中では繰り返す者も答える者もなかった。
 ふぅ。もう一度だけ煙を吐き出し、残った男は煙草を捨てようとして――携帯灰皿を用意するのを忘れたことに気付いた。

「あー、あー、あー……あーあ」

 ため息と一緒に肺に残っていた煙が口から漏れる。
 燃え尽きた灰がぽろりとこぼれた。
 三度、火のついたままの煙草をくわえてくゆらせる。
 じわじわと肌を焼く日が痛い。汗が目尻を伝って目にしみる。

「やっぱ外には出るもんじゃないわ」

 足元の短い影が笑ったような気がした。

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