『同じ書き出しでどれだけ違うストーリーを作れるか』お試し企画!

91.さきは様

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。
 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。
「やぁ」
と、その誰かは気安く声をかけてくる。シャツとジーンズといったラフな格好で、ひらひら手を降ってくるその男は、俺と同じくらいの年頃だった。
「久しぶり」
 男は親しげに近づいてくる。遠くの空は真っ黒で、街は雲の蓋に押し潰されかけていた。
「街並みはすっかり変わっちゃったけど、君は昔のまんまだねぇ」
 どうやら、男は俺のことを知っているらしい。俺は男の顔を凝視した。男の切れ長の目に、悲しげな色がよぎる。そんな顔をされたところで、わからないものはわからない。
 黒くて透明な空は、雨雲が凍ったみたいだった。
「おまえ、相変わらずにっぶいのな」
 口の端を吊り上げて、男は笑う。それにより生まれた、朗らかな声音を裏切って、嘲弄めいた雰囲気に、記憶の底の何かが反応した。その何かといえば、地球の裏側にまでつながっていそうな井戸を更に深く掘り進み、コンクリ詰めしたブツを鎖でぐるぐる巻きにして、鎖のそこここに楔を打ち込んで固定した上で念入りに埋めなおしたくらいに、記憶の奥深くに封じられていた代物だった。
「進学やら就職やらで地元離れてたからさ。遅めの夏休みもらって、久しぶりに帰ってきたら、おまえがいたわけじゃん。どうやら懐かしさの方が勝っちゃったみたいで」
 気恥ずかしそうに、男は頭を掻く。なまぬるい風が通りを抜けていった。飴玉をぶちまけたような音が、幕となって押されてくる。
「小学三年以来だろ、この現象」
 反射で低い声を出す俺に、そこなんだけどさ、と、男は眼を漂わせた。
「どうして口きかなくなっちゃったんだっけ」
 遠雷が聞こえた。
「そういえば、なんでだ?」
 俺は首を傾げる。ものすごく理不尽で腹立たしいことをされたような気はするのだが、それがどういった何かであったのか、はっきりとは思い出せない。男も首を傾げた。
「なんか、ものすごくヤなことされた覚えだけはあるんだよね。許しがたいというか」
「同じセリフ、そっくりそのまま返すわ」
「嫌な思いしたのこっちだって。じゃ、具体的に何されたのか言ってみてよ」
「同じセリフ、そっくりそのまま返す」
 ぱたり、と、大粒の雨が灼けたアスファルトを叩いた。気がつけば、景色は薄闇のフィルターで覆い尽くされている。潤んだ風が吹きすさび、ぬるさは零下の欠片を帯びて、熱さに火照った肌を撫で回した。轟音が地を揺るがし、稲妻が黒い空に迸る。
「やば。とりあえず家に来い」
 俺は男に目配せをした。男は素直についてくる。雷の標的となる前に、俺たちは家の軒先に逃げ込んだ。バケツをひっくり返す直前の雨が、アスファルトを濡らしていく。程なく雨は滝となり、雷鳴は閃光と地鳴りとを振り撒きながら、ゆったりと遠のいていった。
 残ったのは、入道雲が蕩けた空と、陽に煌めく水滴。
 かたちがわからない程度のしこりなんて、きっと、大したものじゃなかったのだ。
 心地よく冷えた大気に身を浸しながら、俺は澄んだ空を仰いでいた。

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