『同じ書き出しでどれだけ違うストーリーを作れるか』お試し企画!

96.ゆきしろ様

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。
 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。

 そこにいる誰かを確かめようと目を細めたところで、辺りは熱射による霞で視界が朧げなままだ。夕方になれば少しも暑さが和らぐかと思ったのだが、寧ろ陽が沈む直前は、蝋燭が燃え尽きる直前にぱっと明るくなるようなものと同じように、最後の力を振り絞って焦がそうとしてくるのだ。

 この辺りは小高い丘になっているのだが、その裾根には森が密集していて、一見すると木陰から涼気のお裾分けでもあるのではないか、という気持ちになるのだが、とんでもない。厄災の森だから近付くな、と幼い頃から強く言い聞かされてきたが、冬はそこから吹雪をこちらに浴びせかけてくるし、このように暑い季節などは陰気な様子からは想像も出来ないような熱風を吐き出してくる。

 きっと自分もまたその熱気にやられたのだろう、先ほどまで誰かが立っていたと思われたそこへ、ふらつく足を励ましながら向かったにもかかわらず、影の一つも残されていなかったのだから。
 取り越し苦労か、と溜息を吐いて、陽射しを避けることもせず、先ほどまで誰かが立っていたそこへ座り込む。ここから見える範囲の森は、海や絨毯のように辺りを埋め尽くしているのであって、忌み避けるような存在感を放っているというよりも、当たり前のようにそこへ寝そべっている。たまに、それを意識すると、なんだか見知らぬ誰かが家族として共に暮らしていて、自分だけがそれを他人と知っているといった奇妙な感覚に襲われることがある。
 そういったことを考えると決まって、嫌な汗が流れるのだ。そして、汗が頬や腕など、肌を伝って、ぽたりと地べたへ落ちる、ほんの微かな振動ですら、自分を脅かすような感覚になる。

 だが、今日拭ったこの汗は、紛れもなく太陽が照らし付けてくるそれ以外の何物でもない。汗とともに拭っても拭ってもそこに滞留し続けるそれは鬱陶しいものであるのだが、常に隣で鎮座する森への畏怖に怯えているわけではないという理由を与えてくれている辺り、どこか救いのように感じられる。
「なんだ、こんなところに。まだ、暑いだろうに」
 後ろから声が聞こえた。聞き慣れた声だったので、振り向くこともせず、ぼんやりと同じ姿勢のままでいると、しょうがないな、とでもいった様子で隣に腰掛けてきた。
「そんなに、森ばかり見て。あまり、あそこの風を浴びるんじゃないって、言われてるだろ」
「……本当は、微塵も心配なんてしていないくせに」
「ははは」
 彼は自分と同じで、あまり、あの森のことについて深刻な思いを抱いてはいない。だから変わり者だとして、たまに白い目で見られることもあった。ただ、どうしても自分の中では、あの森がそこまで妙な、異物感のあるものとして考えられなかったため、それを否定されるとなると、意見こそ出来ないものの、腑に落ちないものを常に感じてしまうのであった。腫れ物に触るようにしてあれを避ける感覚を是とする風潮に、納得がいかないのだ。尤も、それを具体的に言葉にしたことなど無いのだが。
 最初から目を瞑って、手を触れまいとするというよりも、畏れを抱きながらも、そこに触れてみたい、という気持ちを抱いている自分は、閉鎖的で排他的なこの環境に於いて妙な目で見られてしまうのは致し方ないことなのかもしれない。

 ただ、彼もまた自分と似たような考えを抱いているようで、こうしてたまに、森の見える小高い場所を見つけては座り込んで眺めていると、どうしてかいつも見つけられてしまって、今日のこのように、隣に座りだすのだ。だが、ふざけるのが好きな彼と、元々お喋りではない自分との会話は大抵表層のことばかりになるので、あの森についての意見を交わす事など、共に過ごした時間から考えると驚いた話ではあるのだが、殆ど無いのだ。ただ、それくらいの距離はとても居心地が良かった。
「……」
「……」
 沈黙が続く。その間も、お互いに、自分の汗を拭っては、微弱な風を捉えようと神経を尖らせる。そして研ぎ澄まされた感覚は辺りの景色や隣に座っている相手に向けられるもので、何となく、身動きが取りづらくなってしまう。たまに森から吹き出す熱風に驚いてお互い目を瞑ってしまうと、どうしてか楽しくなって笑ってしまう。なにか、してはいけない事をしているようで、秘密を共有しているかのようで、どきどきする。ただそれでも、お互いに抱く、森に対する興味についての議論は一度も為されたことはない。
「あのさ」
 彼がはっきりとした声色で続ける。熱気で靄がかっていた景色に立ち眩みのようなものを覚える中で、やけにその声だけが鮮明だった。
「俺、明日さ。森に入ってみようと思うんだ。おまえになら、それを言ってもいいかなって、思って」
 頭が、くらくらする。暑さにやられたのだろうか、それとも、皆の言う、森の風に当たった所為だろうか。そんなふうに、彼の明瞭な言葉を真剣に受け取らないよう、様々な思考を巡らせてみたのだが、そうやって気を紛らわせようと努力するごとに、その言葉の重みに鼓動が速まる。どう、返したら良いのか分からなかった。
「だから、探してたんだ。会えてよかった」
 ああ、もしかすると。あの時に見たのは、彼の姿だったのかもしれない。誰もいないと思って辿り着いた場所だったのだが、無意識にお互いがお互いを探してしまっていたのかもしれない。ただ、実際にそこには誰もいなかったのだから、それは自分の都合の良い妄想だ。いつも彼が自分を探し当ててくれるのは、もしかすると、彼が自分を先回りして呼び寄せているからなんじゃないかとか、そんな根拠の無い期待を抱いてしまう。
 彼のその、会えてよかった、という言葉は、偶然に出会えた幸運への感謝というよりも、何か、別の色を帯びているように感じられてならなかったものだから。
「そんな、悲しい声で言うなんて、やめてほしい」
 彼の言葉にどこか震えを感じて、それが恐ろしくなった。ただ、彼自身が放った言葉の感情をあまり自覚していないのか、困惑した表情を一度見せると、苦笑して、いつものふざけた調子で言葉を続ける。
「なんだよ、それ。気のせいだろ、気のせい。そっちこそ、泣きそうだぞ」
「なにが」

「ううん、いや、なんでもない」
 本当に、泣きそうだったのかは、今となっては分からない。そして、その後はずっと、沈黙したままだった。いつの間にか東から夕闇がぬらぬらと森を覆い、西に座るこちらの天上へと伸びてきている。西へと静かに落ちてゆく陽射しは、先ほどまで汗の伝う感覚で意識を誤魔化してくれていたのに、もう遠くへと行ってしまった。残されたのは、彼の言葉に対する言葉を紡がず、先延ばしにする自分と、そして、何か期待する答えを胸の内に持っているのか、帰らないで、どこかそわそわとしている彼だけだ。汗は引いて、枯渇してしまった。
 引き留めれば良いのか、それとも送り出せばいいのか、それとも自分も連れて行ってくれと言えばいいのか。全部の答えを言いたかった。ただ、どんなにこちらが言葉に出来ないで粘っていても、容赦なく夜の闇は辺りを覆い尽くすので、彼は暗くなった空を見上げると、立ち上がるしかなかった。その時、いつもしてくれるように、手を差し伸べてくれて、こちらが立ち上がるのを手伝ってくれた。
「それじゃあ」
 そう言うと、まだ何か言いたげな目をしたまま、彼はそっと丘を後にした。彼にかける言葉でさえも、彼の助けがないとはき出せない自分がもどかしくてならない。それでも遠く小さくなってゆく背中が消えるのを見送るのが怖くなってしまう自分は、勇気の一つも見せられないのに、本当に自分勝手だと思う。
 ぎゅっと拳を握る。つま先に力を込めて地を蹴ると、思いのほか、身体は軽かった。そうだ、走れ。追い掛けろ、あの背中を。踏みつける地面がゆらゆらと歪んで、自分を押し出してゆく。冷えた空気は意識を明瞭にし、丘の上に見たような気がする彼の影を、今、自分の視界の中で、はっきりとさせてくれる。そして、こちらの足音に気付いた彼が気付いたところへ、思い切り飛び込んで行った。
「……!」
 驚いた彼はよろめいて、そのまま二人で転ぶ形になってしまった。
「行く。明日、連れて行ってよ」
 言えた。滲んでいた景色が、鋭い輪郭を持って視界に描かれてゆく。さきほどまで辺りを覆っていたねっとりとした熱い空気はいつの間にか消えていたし、それが消えたのと同時に自分の意識にかかっていた霧も晴れてゆく。
 こちらの真っ直ぐな言葉と目を見て、一瞬彼は戸惑ったような顔をしたのだが、暫く目を合わせていると、不安とともに綻ばせた満面の笑みを湛えながら迎え入れてくれるのだった。こちらの勇気に応えるように、しっかりと彼は頷いて、分かった、と言った。

 辺りはあまりに静かで澄んでいて、景色が全く違うもののように感じられる。
 ああこうしてまた新しい季節が始まるのだな、と思った。

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